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幕末・明治期のリーダー。深川時代の有田に!
八代深川栄左衛門
香蘭社を設立して万博に出展し、貿易に力を入れた明治の開化期の有田皿山のリーダー。国策である電信事業推進のための磁器製碍子の製造に成功し、日本の近代化にも貢献した。
天保元(1832)年〜明治23(1899)年 58歳
海外貿易の門戸開放と万博出品
八代深川栄左衛門(以下八代と略)は、幕末・明治期に有田皿山を牽引していた一人であることは、疑う余地もありません。その証拠に、「肥前陶磁史考」(昭和11(1936)年刊)に「深川時代」という言葉があります。
もともと、深川家は有田の有力な窯焼きでした。 江戸時代、有田のやきものは伊万里から積み出され、貿易品は有田の貿易商人が長崎のオランダ商館や中国商人に売り込んでいました。このころの佐賀藩の方針で有田の貿易鑑札は1枚のみで、当時は田代家が貿易を独占していました。慶応4(1868)年春、 八代は打ち首覚悟で佐賀城下の藩庁にのり込み、貿易の権利拡大を願い出ます。 その結果、鑑札は10枚に拡大され、有田焼の輸出に門が大きく開かれました。
磁器碍子の製造で日本の近代化に貢献
明治政府は電信事業に力を入れます。明治4(1871)年、長崎-上海、長崎-ウラジオストックの海底ケーブル敷設が完了し、 日本とヨーロッパが通信で結ばれました。 工部省電信寮頭であった石丸安世(旧佐賀藩士)は長崎-東京間の電信線架設工事を推進します。工事に必要な碍子は当初イギリスからの輸入品で、高価な割に品質は悪かったそうです。 有田のやきもの技術の高さを知る石丸は、八代に相談。八代は研究を重ね碍子の製造に成功し、難工事は明治6(1873)年に完成したのです。同10(1877)年には政府から褒状を贈られ、同12(1879)年からは香蘭社の低圧碍子がロシア、中国へ輸出されました。
カンパニー「香蘭社」の誕生
有田のやきものは慶応3(1867)年のパリ、明治6(1873)年ウィーンの万国博覧会には藩や政府の援助で出品され好評を博しましたが、明治9(1876)年のフィラデルフィア万博は自費出品となったため、 資金力のない有田の人々は出品を躊躇しました。
岩倉具視とともに米欧を回覧してきた久米邦武(旧佐賀藩士)が八代に、欧米には同志で資金を出し合い、 個人では成し得ない大きな事業を行うためのカンパニーがあると、会社設立を促しました。 そこで有力な窯焼や商人で合本組織香蘭社を作り、八代は社長に推されます。メンバーは、八代深川栄左衛門、手塚亀之助、11代辻勝蔵、深海墨之助、深海竹治でした。社名は「君子の交わりは蘭の香りの如し」という中国の易経から取ったもので、「日本における最初の会社組織」とも言われています。合本組織香蘭社として参加したフィラデルフィア万博で、有田焼は高い評価を得て、それを機に、アメリカへの輸出が始まりました。さらに明治11(1878)年のパリ万博では、一等金牌に輝きました。
しかし、合本組織香蘭社は長くは続きませんでした。経営方針をめぐる対立から分裂し、手塚らは分離して精磁会社を作ります。香蘭社は八代の単独経営となり、現在に至っています。
有田の発展に尽力した生涯
明治期の香蘭社は万博や内國勧業博覧会などで数多く入賞し、有田焼を世界に認めさせました。
それだけではなく、白川小学校や勉脩学舎(日本で最初の陶磁器工芸学校)の設立に私財を投じ、地元銀行の設立にも奔走しました。陶山神社境内にはその功績を讃えて「深川君之碑」が建立され、その題字は大隈重信が書いています。
まさに、有田焼の近代化に尽くし、幕末・明治期を牽引した人物と言うことができます。