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遺体は海中に投ぜよ。長鯨にまたがって初志を遂げん!
久富与平昌起
幕末期、佐賀藩から海外貿易を許可された久富本家を引き継ぎ、洋式帆走船・大木丸で活躍したが、不運にも志半ばで死去。存命ならば三菱を凌ぐ商社となったであろうと大隈重信が語った豪商。
天保3(1832)年〜明治4(1871)年 40歳
久富「蔵春亭」の台頭
久富与次平昌常(以下与平と略)は、長男・与次平昌保とともに、1828(文政11)年の「文政の大火」からの再建の功績により、1841(天保12)年ごろに藩からオランダ貿易を認められ、10代藩主・鍋島直正から「蔵春亭」の屋号が下賜されました。長崎の大村町に支店を開き、そこから貿易を拡大していきます。
与平の活躍
与平は、与次平昌常の六男で、後に子のなかった兄・昌保の養子となります。
与平は18歳のころ、江戸遊学から帰郷した谷口藍田に師事します。与平が青年になるころには、長崎の大村町にある支店を差配しています。この支店は佐賀藩の事務所としても利用していたため、藩の留学生として長崎に来ていた副島種臣、江藤新平、大隈重信等の藩士が出入りしていました。これからの佐賀を背負っていく彼らとの交流があったことは想像に難くありません。また、ドイツの科学者ワグネルと知り合いで、彼を有田へ招くために一役買ってでたりしました。
与平は、当時イギリス商人のグラバーとともに佐賀藩領で長崎港外にあった長崎高島炭鉱で石炭採掘を始め、小城藩から大木丸という200tの洋式帆船を借り受け、石炭とやきものを船荷積みし、上海と交易を行いました。
与平の夢は、さらに大きく、世界へ目を向けていました。1869(明治2)年に鍋島直正が北海道開拓使長官に任ぜられたのを機に、北方での海運・交易業を計画します。途中、江戸から改称した東京に立ち寄ったときに、新政府の要職にあった江藤新平から東京府知事にと勧められたといわれています。与平はそれを固辞し、北海道へ向かいました。
五大州を巡る夢、死後は長鯨にまたがり初志を遂げん!
与平を乗せた船は、1970(明治3)年の秋、千島で台風のため難破し、寒さ厳しい北の海をさまようこと半年、ついに病に倒れ、1971(明治4)年6月、釧路厚岸(あっけし)海岸の船中で亡くなります。与平40歳のときでした。
与平は死に臨み、供の者にこう言ったそうです。「自分が死んだら、遺体は海中に投ぜよ。この航海で巨万の利を得て五大州を廻るつもりだったが、不運にも病に倒れてしまった。死後は長鯨にまたがり初志を遂げん!」と言い残したそうです。
大隈重信は、与平の死を悼み、「長命であったなら三菱以上の事業を成し遂げたであろう」と語ったと言われています。
クジラの碑
1932(昭和7)年11月に有田町稗古場にある報恩寺境内に、久富家の子孫によって「久富子藻之碑」(与平の字を子藻という)が建立されました。碑は、長鯨をかたどった石造りの台座の上に建てられ、碑文は師である谷口藍田によるものです。
ゆかりの場所
- クジラの碑(報恩寺境内) GoogleMapで見る