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気品あふれる禁裏御用窯元
十一代辻勝蔵
江戸時代からの禁裏御用(宮内庁御用達)の名窯元で、明治8(1875)年の合本組織香蘭社創立者の一人。その後、精磁会社の設立にも加わり、有田町長としても活躍。
弘化4年(1847)〜昭和4年(1929) 82歳
江戸時代の辻常陸窯
辻家は三代喜右衛門のときに禁裏(当時の宮中)御用となり、安永8(1774)年、六代喜平次のときに常陸大掾源朝臣愛常の官名を授けられ、禁裏へ直接納めるようになりました。
薄い生地に格調高い染付を得意とし、特に極真焼という技法は、九代喜平次によって発明された秘伝の製法です。製品と同じ材質(陶土)で匣鉢を作り、その中に製品を入れて密閉し、匣鉢の中を真空状態にして焼成します。焼成後、匣鉢を割って製品を取り出しますが、特に気品溢れる磁肌の光沢と呉須の発色が得られます。
香蘭社、精磁会社での活躍と万博出品
十一代辻勝蔵(以下勝蔵と略)は明治4(1871)年に十代喜平次の後を継ぎました。明治8(1875)年、八代深川栄左衛門、手塚亀之助、深海墨之助、深海竹治とともに合本組織香蘭社を創立。有力な窯元や商人が力を結集した組織で、翌年に控えたフィラデルフィア万博や輸出に向けての体制を整えたものです。
その明治9(1876)年のフィラデルフィア万博には香蘭社の製品などが出品されましたが、中でも辻家の「色絵菊花流水紋透台付大花瓶」という、高さおよそ75cmの花瓶は、500ドルで売れたそうです。他にも、この万博に辻家は34件もの製品を出品し、「陶造絶妙ナリ、難製ノ痕跡ヲ見セズ形状良好、日本固有ノ装飾ヲ著ス、温雅ニシテ成效アリ」ということで賞牌賞状を授与されました。
しかし、明治12(1879)年に経営方針の違いから、香蘭社は深川の単独経営となり、他のメンバーは、ヨーロッパの製陶技術に精通していた川原忠次郎と泉山石場の頭取であった百田恒右衛門を加え、新たに精磁会社を立ち上げました。精磁会社は、最高の技術者と超絶技巧を駆使し、優美な装飾品や洋食器で名声を得ました。が、輸出の停滞、在庫品の増加、川原、深海墨之助の相次ぐ死去などで明治20年代半ばに会社は存続不可能になっていたようです。このころ辻は、「挽回容易ならずを悟り」退社を申し出、明治22(1889)年に退社。
その後、完巧社を興し、明治36(1903)年に辻合資会社を立ち上げました。
遺志を受け継いで
会社経営の傍ら、明治42(1909)年には有田町長に就任。大正2(1913)年まで、久富三保助助役とともに町政に尽力しました。
卓越したデザイン力と造形や染付の高い技術、そして禁裏との人脈をフルに活用して明治期の有田を牽引した勝蔵。その遺志を受け継ぐ辻常陸窯のご当主は現在15代辻常陸氏です。有田町上幸平の、当時と同じトンバイ塀に囲まれた工房で緻密な染付の作品を作られています。勝蔵はその目と鼻の先にある三空庵墓地の高台にから、工房をしっかりと見守っています。