ゴットフリード・ワグネル

最強助っ人外国人!
有田焼業界に理化学をもたらす。

ゴットフリード・ワグネル

ドイツ人化学者で、日本近代工業の指導者。明治3(1870)年に佐賀藩に雇われ有田へ。石炭窯やコバルト、西洋絵具の導入など、有田焼業界近代化のためのいくつかの技術を伝授。明治23(1890)年に再び来町したときには日本語で演説を行った。


天保2(1831)年〜明治25(1892)年 61歳

最強助っ人外国人、有田へ

明治元(1868)年、ドイツ人の化学者であるゴットフリード・ワグネル(以下ワグネルと略)は、あるアメリカ企業が長崎で始める石鹸製造の事業に参加するために来日しました。長崎で石鹸業を始めたものの、その頃の日本にはまだ石鹸を使う習慣がなかったために失敗に終わります。
一方、脱藩してイギリスに留学した元佐賀藩士・石丸虎五郎は、長崎に滞在していました。そこで有田の青年窯業家の話を聞いているうちに、彼らが経験だけに頼って磁器を焼いていることを知り、西洋の化学的知識を与えることが必要だと感じていました。
石丸は、ワグネルが有田の磁器製造を見学したいと希望していることを伝え聞き、それを長崎の久富商店の久富与平に話します。それが久富から有田の深海平左衛門に伝わり、深海は皿山郡令の許可を得て、ワグネルを有田に呼び寄せたのです。

ワグネルが教えてくれた新しい技術

ワグネルが教えてくれた新しい技術

ワグネルは明治3(1870)年に白川の御山方会所を拠点として、4ヶ月間、技術の研究や指導に取り組みました。
ワグネルが有田に伝えた技術の1つに、コバルトの使用があります。それまで有田では染付(本窯(下絵付け)で発色させる藍色の絵付け)に用いる顔料は中国から輸入される「呉須」という鉱物でした。これが極めて高価なもので、窯焼たちはその入手に苦労していました。ワグネルは呉須をひと目見て、「これはコバルトという金属元素を含んだ石であり、ドイツにはこの鉱物から精製したコバルトがある」と教えたのです。コバルトは呉須とは比較にならないほど安価だったのですが、有田の人はコバルトの適量が分からず、いい発色が得られませんでした。そこで、白土を混ぜて希釈する方法を教え、呉須に劣らないいい色が出せるようになりました。こうして、染付の顔料は呉須からコバルトに移行していきました。
また、それまでは染付(下絵付け)では藍色しか発色させることができませんでしたが、文久年間に深海平左衛門、墨之助、竹治父子は、棕櫚色(灰みのある茶色)を出すことに成功し、さらに父子は他の色を出す方法について研究していました。ワグネルは、藍色以外の色を本窯で発色させられる理由をいとも簡単に学理的に説明します。その後深海は赤・黄・青を発色させる顔料を開発して、この3つの顔料を変化させて、さまざまな色を出すことができるようになったのです。
さらに、それまで有田は登り窯(薪窯)を使用していたのですが、石炭窯を築いて焼成の実験をしています。それまでの登り窯は斜面に築き、大量の薪を使っていたのですが、平地にで石炭を燃料とした窯を開発し、深刻な薪不足の問題の解消を目指したのです。結局それが普及したのは明治後期になってからですが、技術革新の大きな一歩となったのです。
ワグネルは藩との契約期限が切れて有田を去りますが、明治6(1873)年のウイーン万博には、日本事務局のお雇い外国人として参加。出品の選定方針から選定、技術指導、目録の作成などに携わったと言われています。日本の物産が好評を博する立役者でもあり、またこのとき渡欧した川原忠次郎などの伝修生の指導にも熱心だったようです。

再び有田へ

再び有田へ

明治23(1890)年、ワグネルは再び有田を訪れます。このとき有田の人は、再会を喜んで勉脩学舎で盛大な歓迎会を開催しました。そのときにワグネルは、日本語で講演したそうです。窯業用の燃料を薪から石炭に移行することと、製造原価を下げるために工程を分業することの必要性を説いたと伝えられています。
有田焼の近代化の功労者であるワグネルは、東京港区にある青山墓地の一角に眠っています。幕末明治期に有田にやって来た外国人指導者に学び、技術を吸収していった有田の窯焼たちはきっと心を躍らせていたことでしょう。それまで250年にわたり形を変えなかったやきものの生産現場の姿が、西洋技術の導入によって大きく近代化していったのは、言うまでもありません。