田代紋左衛門

ライバルと切磋琢磨して、海外ば目指そう!

田代紋左衛門たしろもんざえもん

幕末期、海外貿易を許可され、「肥碟山信甫」銘のやきものを製造、販売。長崎のほか、横浜、上海にも支店を出した。町内外に手強いライバルがいる中、新しいやきもの・碍子の製造にも取り組み、輸出もした。


文化14(1817)年〜明治33(1900)年 83歳

海外貿易を始める(田代ブランド海外へ)

田代紋左衛門(以下紋左衛門と略)は、1856(安政3)年ごろに佐賀藩から唯一許可を受けていたオランダ貿易鑑札を久富家から譲り受けます。これを機に、海外向けの磁器製造と販売を一手に始めました。その製品は、陶山神社横にあった白焼窯(大樽)で焼かせたもので、高台内には「肥碟山信甫」の銘を入れ、田代ブランドとして広く海外へ輸出されました。また、当時有田では作れなかった薄手の製品は平戸藩領で有田と隣接する三河内(長崎県佐世保市)に注文し、それを有田へ運ばせ赤絵を施していました。
海外輸出のために、長崎や横浜にも支店を設け、海外貿易を拡大させていきます。
紋左衛門は士分格となってからは、田代屋の経営を子の助作に任せています。

赤絵屋事件

先に述べた海外向けの三河内の薄手の製品に赤絵を付ける、という行為は佐賀藩の禁制でした。紋左衛門の独占に窯焼たちは反感を抱いていましたが、剛毅な紋左衛門は意に介せず、国益のため長崎奉行も見て見ぬふりをしていました。しかしあるとき、未焼成の品を手に入れた窯焼たちが皿山代官に訴える事件がありました。この件で子の助作が捕まり、のち釈放されましたが、紋左衛門は相当ショックを受けたようです。

独走していた田代だったが・・・(ライバルたちの台頭)

佐賀藩が許可していた1枚の貿易鑑札は、1868(慶応4)年に10枚に拡大されました。この後すぐ、時代は明治となり、廃藩置県により皿山代官所は廃止され、磁器生産や販売はもとより、海外貿易も自由となりました。
また、当時は欧米諸国において数年おきに万国博覧会が開催され、有田からこぞって出展し、欧米の市場調査ため有田からも万博に参加するため渡航していきました。
海外貿易を独占していた田代(屋)でしたが、1枚鑑札からいきなり過当競争の渦に巻き込まれ、ライバルたちの猛追を受けることとなりました。紋左衛門は、このような時勢をどのように見ていたのでしょうか。
万博で得た情報や技術に加え、欧米を見聞した人々とのつながりを活かすことができた者だけがこの競争に勝ち残ることができたといえるのかもしれません。それまで、「田代の時代」と称されたものの、次第に「深川の時代」へと変わっていきました。

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